水の話
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美しい海を明日へとつなぐ

鹿児島湾の水質
 昭和40年代後半に錦江湾が汚染の初期段階にあることが指摘されました。日本の多くの地域で河川や海の汚れが問題となりはじめたのは、やはり昭和40年代です。しかも汚れは急激に進行しました。そうした地域に比べ錦江湾の汚れの速度は緩やかでした。東京湾とほぼ同じ面積の錦江湾ですが、東京湾の流域人口は約2,600万人、それに対して錦江湾の流域人口は88万人と約30分の1です。湾周辺の人口が遥かに少なかったことや浅海部が少ないために、埋め立てによる海岸の大規模な改変が行われにくいということが汚れの速度を緩やかにしたと考えられます。
また内湾とはいっても、錦江湾は外洋からの海水が流入しやすい形状でした。湾の東側にある大隅半島が太平洋に突き出しているため、黒潮の一部がぶつかり分流となって、大隅半島沿いに湾内へ流れ込みます。大正3年の大噴火で大隅半島と桜島が陸続きになる前は、分流の一部が湾奥部へ流れ込み、湾奥部をぐるりと回り、桜島の西側の海峡を経て湾央部へ流れていました。また桜島に遮られた分流の一部は、そのまま西側の薩摩半島へと至り、湾奥部からの海流とともに南下し湾外へと流れていきました。
ところが大正3年の大噴火によって桜島の東側の海峡が閉じられたことによって外洋の海水が湾奥部へ入り込みにくくなってしまいました。しかしすぐに水質が悪化することはありませんでした。産業構造や住民の生活様式が現在とは異なり、水質を悪化させる原因がそれほど多くはなかったからであったと思われます。また内湾の汚れの原因の一つに流入河川の汚れがありますが、湾奥部には天降川のように清らかで比較的水量の多い川が流れ込んでいたことも水質悪化の防止に役立っていたようです。しかし昭和40年代になり生活様式の変化などによって水質が徐々に変化を見せ始めます。

埋まった海峡
大正3年の大噴火によって桜島は32億tもの溶岩を流出し、大隅半島との間にあった海峡を埋めてしまいました。そのため湾奥部へ流れていた海流が遮られ、海水が汚れやすくなってしまいました。

天降川上流部 天降川下流部
錦江湾の湾奥部に流れ込む天降川上流部には、江戸時代に佐渡と並ぶ日本有数の金山として栄えた山ケ野金山がありました。聞こえるのはのどかな村の中を流れる川の水音くらいです。水の美しさは下流へいっても変わりません。


COD増加の原因は窒素、リン?

 錦江湾では平成10年頃からCODの増加傾向がみられます。鹿児島湾ブルー計画に基づく各種対策により排出汚濁負荷量は、平成元年度の38.9t/日を最高に年々減少し、平成14年度は28.2t/日となっています。排出汚濁負荷量が減少すればCOD全体が減少してもよさそうなものですが湾内の水質は悪化傾向を示しています。理由はCODの排出を削減しても、CODが湾内で再生産されているからです。原因として窒素やリンの汚濁負荷量の増加や海水温の上昇による植物プランクトンの増殖が考えられています。窒素やリンは植物の生育にとって必要な栄養です。ところが窒素やリンが増え過ぎると植物プランクトンが増殖し過ぎ、さらにそれをエサとする動物プランクトンが増殖します。大量に発生したプランクトンは水中の酸素を大量に消費し、さらにプランクトンの死骸が分解する過程で酸素が消費されます。こうして水質が悪化していくのです。
平成4年度と平成14年度における錦江湾での窒素とリンの汚濁負荷量を見ると窒素は18.8t/日から20.7t/日へ、リンは3.26t/日から4.02t/日へと増加しています。
海域別で排出汚濁負荷量を見るとCODと窒素は湾奥部での割合が高くなっています。リンの割合が高いのは湾央部の大隅半島側と湾奥部です。発生源別排出汚濁負荷量では水産系、畜産系、生活系が上位を占めています。



重富干潟
重富干潟
約30haの重富干潟は錦江湾奥部にある最大の干潟です。過去には埋め立ての計画もありましたが、今では環境省の「日本の重要湿地500」にも選ばれ、大切に保護されています。

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