水の話
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美しい海を明日へとつなぐ
桜島港からフェリーに乗船すると鹿児島港へは15分で到着します。ここは錦江湾の中で最も幅が狭まっている場所です。ビルの建ち並ぶ鹿児島の市街地が目の前に迫ってきます。錦江湾の周辺には約88万人の人々が暮らしています。

湾名の元は島津家久の歌
 日本の湾の名前はほとんどが地名に由来しています。錦江湾も正式名称は鹿児島湾ですが、別名である錦江湾がよく使われています。錦江湾の名は、薩摩藩初代藩主・島津家久(忠恒)が詠んだ「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」が元になったとされています。美しさを表す言葉が湾の名前となって一般に使われているのは、おそらく錦江湾だけでしょう。
島津家久がこの歌を詠んだ場所は錦江湾の最奥部で現在の加治木町です。その当時、桜島と大隅半島は分かれていたので、大隅半島の先端にぶつかった黒潮の一部が半島に沿って北上しそのまま湾奥部にまで入り込んでいました。海は今よりももっときれいだったのです。しかも海流とともに外洋からは多くの魚が入り込んでいました。クジラやマグロも入り込んでいたといわれています。
ところで閉鎖的な内湾は外洋の海水と入れ替わりにくいのが特徴です。錦江湾の場合は、大正3年の桜島の大噴火によって湾奥部と湾央部とが区切られてしまい、しかも水深が200mを超えるところもあります。すり鉢状になっているため干潟をはじめとした浅海部分は多くありません。水深が20mよりも浅い海域は東京湾の場合は75%以上もありますが、錦江湾では15%程度しかありません。干潟や藻場などを形成する浅海部分は海のゆりかごともいわれ、魚介類の産卵や生育場所になると同時に、海を浄化する大切な機能も持っていますが、そうした場所が少ないのです。またすり鉢状となっているため、海底に汚れの原因となる物質が沈み込んでしまうと、湾の汚れを回復させるのは容易なことではありません。錦江湾は汚れやすく、しかも一度汚してしまうと、きれいにすることが難しい海域です。

桜島と錦江湾
鹿児島県庁舎の最上階にある展望台から眺めた桜島と錦江湾。


鹿児島湾ブルー計画
第4期 日本が高度経済成長をしていた昭和40年代後半に、錦江湾も汚染の初期段階にあると指摘されました。そのため鹿児島県は昭和54年5月、錦江湾の水質を保全するための「鹿児島湾ブルー計画(鹿児島湾水質環境管理計画:昭和54年度~60年度)」を策定し、これまで3回にわたり改訂をしてきました。
水質については第2期計画(昭和61年度~平成6年度)ではCODとリンを、第3期計画(平成7年度~平成16年度)では、窒素についても水質保全目標を定めてきました。そして現在は、平成17年度から26年度までを期間とする第4期計画を推進しています。第4期計画ではマダイ、ブリなどが泳ぎ、ワカメなども生息できる水質に相当する「水質保全目標」と、誰もが親しめるきれいな海水浴場とするための水辺環境の保全管理目標として「海水浴場の水質目標」が定められています。
錦江湾の水質変化の現状は、CODについては平成10年以降は悪化の傾向を示しています。リンは湾奥部で水質保全目標を上回る年度もありますが、窒素は目標を達成しています。


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