水の話
 
井戸の歴史

井戸が一般に広まったのは、江戸中期から
 井戸掘りの技術が発達し、一般に広まったのは江戸時代の中頃になってからのことです。文化11年(1814)に書かれた本によると、井戸掘りには200両もの費用がかかるため武家には手が出せず大商人しか掘れなかったのですが、大阪から「あをり」という奇器を使い無造作に井戸を掘る技術が伝えられ、3両ほどで井戸が掘れるようになって普及したとされています。

 この「あをり」を使った井戸掘り技術というのは、その後、千葉県の上総地方に伝わり発達した「上総掘り」のことを指しているようです。

では、こうした井戸が普及する前はどのようにして水を得ていたのでしょうか。農山村の場合は河川や谷川の水を直接あるいは竹や木で作られた樋を使い必要なところまで引くことが可能です。井戸を掘るにしても、浅く掘るだけで水が使える所に住んでいたといってもいいかも知れません。ところが東京をはじめとした現在の都市には、城下町から発展したところがたくさんあります。江戸にしても徳川幕府が開かれるまでは、太田道灌が築いた江戸城の周りにわずかな戸数の農家が散在するだけで、現在の都心は海か湿地でした。それを埋め立てて江戸の町は作られていったのです。似たような城下町は他にもたくさんあります。そんな所に井戸を掘っても塩気や金気があったりして飲料水には適しませんでした。
上総掘り
小さな水溜まりですが、よく見ると端にあるコンクリートのところから水が湧き出しています。これも上総掘りによって作られた井戸です。

溜井戸 昔の上水に使われた設備
竹で作られた樋の接続部分は木をくりぬいた「枕」という物で繋ぎあわされました。左の写真は溜井戸。(滋賀県近江八幡市)
枕
 そこで盛んに作られたのが上水(上水道)です。とはいえ、川や池の水を濾過も沈殿もせずにそのまま引いてきただけのものでした。一般市民の飲料用を目的につくられた上水で一番古いのが神田上水(東京都)とされています。水源は湧水によって7つの池があったという「井の頭池」でした。その後、近江八幡(滋賀県)、赤穂(兵庫県)、福山(広島県)、桑名(三重県)、高松(香川県)、水戸(茨城県)、鹿児島(鹿児島県)などでも飲料用を目的とした上水が作られていきました。これらの上水は水源からは掘割を通して、市街地では石や木で作られた樋を地中に埋め込んで配水されました。そして、導水管の途中に桝を設け、そこから水を汲み上げました。この桝は「溜井戸」とも呼ばれています。

大変に貴重であった日本の水
 上水は川や池の水をそのまま引いただけでしたが、江戸では井戸水よりもはるかに清浄な水でした。古典落語などで水売りの話しがでてきます。上水で余った水は最後は隅田川に放流されました。その水を樽などで受け止めて売っていたのです。水を汲むのには町奉行の許可が必要でした。それほど当時の上水の水は貴重なものでした。そのため、上水は飲料用に限られ、これを濫用することは不道徳なこととされていたのです。

ところで、江戸といえば火事が名物とされるほど頻繁に火災が発生しています。この火事の原因が用水にあると唱えた儒学者がいました。いわゆる「風水」の思想によるものです。風というものは大地の息で地から生ずるため、地下に用水を通すことによって地脈が切断され、風が軽くなり火を誘うというのです。そこで用水を廃止すれば火災も減少すると主張したのです。用水は必要最低限のものだけ残し、あとは井戸を掘ればいいというのです。ちょうどそのころ、より深い井戸を掘り、良好な水が得られるようになっていたため、いくつかの上水は廃止されました。逆にいえば、用水が廃止されたため、井戸が盛んに掘られるようになったともいえるのです。ただし、どの家にも井戸があったわけではありません。多くは共同の井戸でした。

井戸 高座結御子神社
地方へ出かけると、いまも民家の脇に井戸があります。上水道も引かれていますが、井戸は雑用水として使われているようです。(愛知県南設楽郡鳳来町) 井戸にまつわる神事にもいろいろあります。この井戸は中を覗いて顔を水に映させると病気にかからないといわれています。(名古屋市・高座結御子神社)


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