水の話
 
井戸の歴史
田舎へ出かけると、いまでも井戸の残っている家を見かけます。ところが、井戸のすぐ側に水道が引かれていたりします。でも、井戸が全く使われていないということでもなさそうです。井戸水と水道水を用途によって使い分けている家もあります。つい数十年前まで、井戸は一般の家でもごく普通に使われていました。井戸が使われるようになったのは、いつ頃からでしょうか。

井戸は水の出入り口
 昔から人々は川や池、湧水など水のあるところに住居を構え、村や町を作ってきました。水が乏しければ、雨水を溜めるか井戸を掘って水を確保してきました。例えば古事記や日本書紀には、天照大御神と須佐之男命が「誓約」をする場面でお互いの剣と珠を『天の真名井』の水で洗い清める、という記述があります。天とは神々の住む場所であり、真名井とは井戸をていねいに言い表した言葉です。しかし、この場合の井というのは必ずしも掘った井戸のことを指しているのではありません。井は川、池、泉、用水など、とにかく水を汲む場所を指していたのです。兵庫県や島根県には古くから「真名井神社」があります。伊勢神宮の外宮にも上御井神社、下御井神社があり、清らかな水が湧いています。井はかなり古くからあったのです。そして、井の入り口を「井戸」というようになったのです。

 土木技術の発展した現在ならば、石油採掘からも分かるように、何千メートルもの地下へ井戸を掘るのは決して難しいことではありません。しかし、技術も道具も十分ではなかった時代、どのような方法で井戸は作られたのでしょうか。

最初のうちは、井戸を掘るといっても浅く掘り、湧水や河川の伏流水を利用できるようにした程度です。しかし、深く掘り下げなければ水を得られないような場所では、直径十数メートルの大きなすり鉢形の穴を掘り、その縁のラセン状の道を降りて水を汲むこともありました。東京都羽村市に残る「まいまいず井戸」は大同年間(806~810)に作られたといわれています。
まいまいず井戸
まいまいず井戸
すり鉢状に掘り下げた形がカタツムリに似ているためにこのような名前で呼ばれています。(東京都羽村市) 

 一方、日本各地には、いまも弘法大師によって作られたという井戸が伝えられています。その多くは、水に困っている村人などの前で大師が杖を地面に突きたてると、水がこんこんと湧き出した伝説として残されています。弘法大師とは空海(774~835)のことで、平安時代に遣唐使として唐の国へ渡り、様々な知識や技術を日本へもたらしたことで知られています。日本一の溜池として知られる香川県の満濃池は空海が作ったことでも有名ですが、いまでいうアーチ式ダムによって川の水を塞き止めたのがこの池です。空海はいわば当時における最先端技術者でもあったのです。彼が唐で学んだ井戸掘り技術が様々な人々によって、全国に広められたとしても不思議ではありません。とはいっても井戸掘り技術はまだまだ未熟でした。

千葉県袖ヶ浦市の弘法清水 満濃池の改修工事の図
千葉県袖ヶ浦市の弘法清水
昔、浜辺を弘法大師が杖で突いたところ、真水がこんこんと湧き出したといわれています。工業地帯として埋め立てられてしまいましたが、つい最近になって上総掘りによって復元されました。
満濃池の改修工事の図
弘法大師が作ったとされる香川県にある満濃池。その後、幾度も拡張されましたが、いまも満々と水をたたえ、溜池としての役目をはたしています。


メニュー|1 2 3 4 5 6次のページ