水の話
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貯水量日本一の灌漑用ため池・入鹿池

前代未聞の大事業
 入鹿池がつくられる前のこの地は三方を山に囲まれた盆地状の地形で、160戸の村があり、村の中を数本の川が流れ、それらの川が1本となり、銚子口という場所から流れ出していました。この銚子口に堤防を築いて流れを塞き止めたならば大きな池ができることになります。しかし、ここにため池をつくるには村を丸ごと池の中に沈めることになってしまいます。現代社会でもとてつもない大事業ですが当時としてはまさに前代未聞の計画でした。
この事業を考えたのは近隣に住んでいた6人の戦国浪人で、後に「入鹿六人衆」と呼ばれるようになりました。村を一つ潰してしまう事業ですから戦国浪人や農民の力だけで実施できるようなものではありません。入鹿池の築造は、尾張藩の家老であり犬山城主でもあった成瀬正虎を通して藩に願い出て、尾張藩の事業として取り組まれることになりました。
この時、移転する村人たちに希望する代替地を与え、「引越手伝い金」という名の、いまでいう補償金まで支払っています。それだけではなく、水が供給されることによって開墾が可能になる広大な地域へ入植者を募る時、他国領地の者や重罪の者であっても新田を開くことを希望する者であれば罪を赦すとしたのです。こうした政策がとられたのは、おそらく日本で初めてのことではないかと思われます。
築造は寛永9年(1632年)に始まり翌寛永10年(1633年)に完了しています。巨大な池をつくるにしては意外と短い工期で完成しています。もっとも池をつくるといっても穴を掘るのではなく堤をつくるだけです。とはいうものの、堤によって巨大な池が出来上がれば、堤にかかる水圧は相当なものになるはずです。池が大きければ大きいほど、万が一堤が決壊して洪水を引き起こしたならば、その被害は想像を絶するものとなってしまいます。しかも、単に堤をつくり、水をせき止めるだけではないのです。必要な時に、必要なだけの水を供給できるようにしなければなりません。

百間堤
百間堤あるいは河内屋堤と呼ばれている入鹿池の堰堤。明治以降になって洪水対策のための改修工事などが行われていますが、約400年前につくられたときと規模はほとんど変わっていません。


堰や水門の施された様々な工夫

 工事は難工事となりました。堤をつくる銚子口の流れは速く、つくりかけてもすぐに流されるという連続でした。そこで呼び寄せたのが河内国(現大阪府)の勘九郎という土木工事に優れた人物でした。
最初にしっかりとした土台をつくることができれば、後はその上に土を積み上げていけばいいはずです。この土台をつくるのに用いられたのが棚築(たなづき)という方法でした。これは塞き止める川の上に木の橋を架けその上に木の枝などの燃えやすいものを置き、さらにその上に大量の石や土を乗せます。そして橋に火を付ければ大量の土砂が一度に川の中に落ちて川はせき止められます。こうして幅約21m、長さ約180m、高さ約26mの堤が築かれました。堤長が180m(百間)あるところから百間堤、あるいは河内屋堤と呼ばれています。現在の堤はもともと山であった部分を整備しているため724.1mとなっていますが、池の規模はつくられたときとほぼ同じです。
堤とともに必要なのが水門です。入鹿池の水深は平均17mです。水田には表面の暖まった水から流すようにしなければ稲の生育に悪影響を与えかねません。そのため杁(いり)といわれる水門がつくられました。杁は根樋(ねひ)と立樋(たてひ)からつくられます。根樋は池の水を堤の外へ放出するために地下に埋め込まれます。立樋は池の表面に近い水から順に流すような工夫がしてあります。池の側の堤に沿って斜めに取り付けられた樋に、いくつもの穴をあけて戸板などで塞いでおき、水が必要なときは上の穴から順にろくろで引き上げて、開けていくようにしたものです。現在は真鍮(しんちゅう)でつくられた取水口があります。この水は堤の下の幼川の源頭部となっています。


木津用水の取り入れ口
犬山城のすぐ下の木曽川にある木津用水の取り入れ口。右に木曽川の流れが見えます。

尾張名所図会
江戸時代後期の天保年間に編集された「尾張名所図会」に描かれた「入鹿池の杁の図」。小屋から水中へ伸びているのが立樋、この堰堤の下に根樋が埋められています。絵には着色が施されていますが、原書は白黒です。


改築工事
改築工事
昭和2年に行われた入鹿池の取水口の改築工事。右の写真にレンガづくりの取水塔の一部が写っています。池の水を干し、ツルハシなどによる手作業で工事が行われました。


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