水の話
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貯水量日本一の灌漑用ため池・入鹿池
池には何艘ものボートがつながれています。遠くの岸辺では釣り糸を垂れている人がいます。明治時代の建物などを集めた「明治村」の一角が小さく見えます。日本でも有数の大きさを誇る入鹿池は江戸時代にため池としてつくられ、濃尾平野の一角を潤してきました。

日本を代表するため池
比較表 現在、日本にある農業用のため池の数のうち、貯水量が3万m3以上のものだけで約20万あるといわれています。日本におけるため池の歴史は古く、奈良時代以前から大和朝廷が支配していた近畿地方を中心にしてつくられていたようです。現在でも大阪、兵庫、奈良といった近畿地方をはじめ、雨の少ない瀬戸内地方の香川、広島、山口などの府県に数多くのため池が残されています。
愛知県も全国的に見るとため池の数は比較的多い地域です。ただし、愛知県内でため池が多いのは知多半島や愛知県のほぼ真ん中に当たる三河といった地域です。日本で米づくりが行われてきた場所は、低湿地のような所です。濃尾平野は木曽三川によってつくられた平野で、海抜はそれほど高くはありません。ひとたび大雨が降ると水没してしまうようなところでした。そのことがかえって多くの水を必要とする稲作には適した土地だといえるのです。そんな濃尾平野の北東の端につくられたのが入鹿池です。
入鹿池の貯水量は約1,680万m3、満水時の面積は166haもあります。堤防の高さは約26m、長さ約724mにもおよびます。香川県の満濃池は入り江が複雑に入り組んだような形になっているため、池の周囲は入鹿池の方が若干短くなっていますが、貯水量や満水時の面積は入鹿池の方が大きくなっています。池というよりは湖と表現した方が似合っている大きさです。

入鹿池の全景
入鹿池の全景。向こう岸には堰堤が見えます。手前の赤い橋が架かっている川は五条川で、堰堤のところから再び五条川となって流れ出ます。


洪水から守るために使えなくなった水
 木曽川を隔てた北は美濃、南は尾張です。木曽川はたびたび氾濫を起こしていました。川の氾濫は肥沃な土地をつくる一方で、そこに暮らす人々にとっては脅威にもなります。しかも氾濫によって流路がしばしば変わります。土砂で埋まり川床が低くなる場所もでてきます。水運の面から見た場合にも、川の流れや水深は安定していることが望まれます。
江戸時代に入ると各地で新田開発が盛んに行われるようになってきました。その一方で、徳川家康の九男である徳川義直が初代の尾張藩主になると尾張を洪水から守るため、犬山から下流へかけて約50kmにも及ぶ御囲堤(おかこいてい)と呼ばれる堤防を築きました。この時、美濃側の堤防は尾張側よりも1m低くしなければなりませんでした。御囲堤が築かれた時、木曽川からの分流は閉め切られ廃川となりました。 
こうした治水工事は洪水対策としてはかなりの効果を発揮しましたが、それまで灌漑用に使われていた木曽川の分流が廃川になったため、水が供給されなくなる地域がでてきました。
濃尾平野の東部には台地状の地域が広がり、小さな河川や小規模なため池はありましたが、大部分の地域は水田をつくるのには適さないだけではなく、米以外の農作物もあまりつくられることのない荒野だったのです。わずかな水を田畑へ引くため、村人同士の水争いもたびたび起きていました。
犬山市の東部は台地状となっています。そこへ大量の水が供給できたならば、広大な田畑をつくることができるようになるはずです。台地状の地域へ大量の水を供給するような動力のない時代です。田畑へ水を供給するには標高の高い場所に水を溜め、低い場所へ流すという自然の力に頼るほかはありません。こうして考えられたのが入鹿池でした。

水田
入鹿池のおかげで開墾された水田。池ができる前は水に乏しい荒野でした。


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