水の話
 
五穀にも数えられない蕎麦が大切にされてきた理由

条件の悪いところに蕎麦畑
 信州蕎麦の産地として、御嶽山の麓に広がる開田村も有名です。高原の村の夏は短く、年によっては9月初旬には霜が降りることさえあります。真夏でも沢の水は手の切れるような冷たさです。水が冷たいということは、苗が育ちにくく、稲作には不利な土地柄です。村内には3か所に「稗田の碑」というものが建てられています。いまから200年以上前に、水田を拓いた人を称えたものです。稗田ということからも分かるように、水田といっても最初は稗の水田であったのです。その後、低温に強い稲の品種改良をしながら、徐々に米の水田を広げていきました。それでも、育った稲の背丈は普通の半分ほどしかなく、収穫量も半分ほどでした。収穫された米を精米しても、いわゆる屑米に近いものでした。商品としての価値はなく、米は自家消費に回されました。それでも米だけでは食料として十分ではなく、稗、粟、麦も食べられていました。
開田村でも戸隠村と同じように、換金作物として麻が作られていました。しかし、戸隠村では麻を収穫した後の畑に蕎麦を植えたのに対し、開田村では麻を収穫した後の畑にカブや野沢菜が植えられました。蕎麦は栄養分が少なく条件の悪い別の畑で作られていたのです。開田村では蕎麦の作付け面積は少なく、収穫量もそれほど多くはなかったため、蕎麦が主食の地位を得ることはありませんでした。

開田村の風景
開田村の風景
  開田村は御嶽山からの恵みの水が豊富です。村内には小さな沢や川がいくつもあります。しかし寒冷な地のため水は冷たく、昔は稲作には適しませんでした。

水があっても使えない地域
 蕎麦の歴史を辿っていくと、過酷な自然条件の中で、必死になって生きる山村の人々の暮らしが思い浮かびます。 開田村の場合、50~60年前までの交通手段といえば険しい山道を徒歩で行くか森林鉄道を利用するくらいしかありませんでした。また、当時の農作業はもっぱら人の手によるものでした。もっとも、程度の差はあるにせよ、それは日本中の山村で見られた光景です。
蕎麦は痩せた土地でも育ち、旱魃(かんばつ)にも強い作物です。あえて水を撒かなくても、雨や霧からの水分だけで育つ作物です。となると蕎麦の産地は水そのものも少ないのでしょうか。
戸隠村には、親鸞聖人が訪れた際、聖人の唱えるお経に合わせて砂を舞い上げながら水が噴き出したという「念仏池」がいまも残っています。また、村内にある種池の水は、それを地面に着けずに持ち帰り、戸隠神社に雨乞いを祈願するとその里には必ず雨が降るといわれ、日照りの年には、いまも県外からも水を汲みに訪れる人がいます。しかし、村そのものが水が得られずに苦労したという話しはありません。開田村も年間降水量は全国平均より多い約2,300ミリです。そして御嶽山に降った豊富な雨や雪によって、幾筋もの沢が流れています。
信州には「蕎麦と水がうまいは自慢にならぬ」という諺があります。たしかに信州は日本の屋根ともいうべき3,000メートル級の山々が連なっています。量としての水は豊かなはずです。しかも、その多くは山から湧きだしたばかりの、汚れを知らない水です。信州では蕎麦や水がうまいのは、当り前のことです。
ところが、蕎麦の産地では水に苦労していたのです。蕎麦の産地は寒冷な気候の土地が多く、水は豊富でも水温の低い水ばかりです。そのため、米を作ることができず、蕎麦を作っていたのです。美しい水が豊富にあっても、使えない水というものもあるのです。

ウマの親子
開田村での開拓に大きな力を発揮したのが、力強く、おとなしく、女性でも扱いやすい大きさの木曽馬でした。美しい蕎麦畑や稲木など、いかにものんびりとした山村風景ですが、そこには食に関しての厳しい歴史も隠されているのです。
山村風景


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