水の話
 
山村の貧しい食事から代表的日本食へ

都会の食べ物として格上げに貢献した二八蕎麦
 二八蕎麦という言葉があります。つなぎの小麦粉2割、蕎麦粉8割で作るところから、生まれた名前だとか、かけ蕎麦の値段が十六文であったので、十六=二×八で二八蕎麦というようになったとかいわれています。
二八蕎麦の看板を掲げた店は享保年間(1716~1736)の頃から江戸市中に現われます。そして、蕎麦に小麦粉のつなぎが使われだしたのもこの頃からです。その当時、かけ蕎麦の値段は少なくとも十二文以下であったとされています。すると十六文だから二八蕎麦という説は成り立ちません。では、つなぎと蕎麦粉の割合からきた名前なのかといえば、これも疑問です。いまでこそ計量カップが一般的に使われていますが、江戸時代には、例えば主原料を1升というような基準にして、それに小麦粉を何合というように混ぜるのが普通でした。したがって、蕎麦粉1升ならば、つなぎは3合とか2合という言い方の方が自然です。もっと不思議なのは、二八蕎麦が現われた当時、二八うどんもあったことです。うどんの主原料は小麦粉ですから、つなぎを入れる必要はありません。そこで、最初の二八蕎麦は二杯で十八文の十を省略した言い方だという説もあります。
どの説が正しいのかは分かりませんが、江戸で二八蕎麦が生まれることによって、蕎麦の人気は高まります。それまで、蕎麦はどちらかといえば山村の貧しい食事といった程度のものでしたが、徐々に一般的な食事といった方向へと格上げされていったのです。
定勝寺
蕎麦切りの起源では、中山道の木曽路にある定勝寺で発見された文献に「そばきり」文字が記されており、これが記録の上ではもっとも古い蕎麦切りだと言われています。


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