フジクリーン工業株式会社
水の話 サケの遡上part1
水と生きる
北の海から元気な姿で戻って来い

 オホーツク海に面した標津町。20数キロ先に見える島影は国後島です。知床半島の山々も波の向こうに見えています。浜辺にはハマナスが赤い実をたくさんつけています。もの悲しい海鳥の声が、風に乗って聞こえてきます。いやが上でも、北の国を意識してしまいます。しかし、ここはサケの漁獲高日本一の町。サーモン科学館をはじめ、サケにまつわる施設もたくさんつくられています。サケのふ化放流事業も古くから行われてきました。その事業で一番最初に行われるのが、サケの捕獲作業です。
元伊茶仁捕獲採卵場勤務
大菅豊市さん
大正9年4月30日生まれ。北海道標津町にある北海道さけます増殖事業協会根室支所・伊茶仁捕獲採卵場で、現場責任者として30年以上にわたり、サケの捕獲事業に携わる。

国後島を目の前にする流氷の町
「昔は浜の上にまで、流氷がギイギイと音をたててあがってきたこともあるけど、いまでは沖の方に見える程度で、大きいもんは来んくなってしまいました。」
 大菅さんの家の裏手から浜までは、歩いてほんの2~3分。その先は、オホーツク海です。昔に比べれば、雪も少なくなったとはいいますが、それでも冬はかなり厳しいはず。
「あるとき、犬が大きな流氷に乗ったまま沖へ流されたことがあるんです。おまわりさんまでとんできて、みんな大騒ぎしたことがあったんです。」
横から奥さんが口をはさみます。おそらくこの町で起きた大事件の一つだったのでしょう。雪と氷に閉ざされる、自然条件の厳しい町というよりは、むしろ平和な町なのです。
「流氷が来ると、たしかに漁はできんくなります。しかし、流氷がなければ冬でもコマイ(タラ科の魚)は採れるし、夏になれば山菜も豊富です。とにかくええところです。戦争で兵隊として外地へ行った時以外、この町から外へ出て生活したことはありませんし、出たいと思ったこともありません。」

 漁師の家に生まれた大菅さんは、小さい時から父親と一緒に漁に出ていました。数トンの大きさの船に、家族だけで2~3人乗り込んでの、ごくありふれた漁家でした。

「いいところだとはいっても、このあたりの漁はあまりパッとしねえもんだから食うや食わずの毎日でね、15歳の頃には他人の船で働いたこともありましたね。」


復員 そしてサケ捕獲に
 昭和15年、大菅さんは兵役のため千葉県の陸軍に入営します。実は、本籍が千葉だったんです。
「もともと爺さんが千葉の出身だったらしいんだよ。でも、ここで生まれ育ったから、千葉へ入隊しろといわれたときは、驚いちまったよ。」
中国大陸へ渡った隊は、やがてフィリピン、ベトナム方面へと移動しました。台湾方面では大菅さんの乗った船が沈められ、200人のうち、助かったのはわずか16名。それもベトナム方面でさらに4人が戦死。まさに九死に一生を得て帰国しました。
 標津町へ戻った大菅さんは、再び船を操り海へ出かける毎日でした。カレイ、コマイ、ウニなどを採りながら、一家の暮らしを支えていました。刺し網によるサケ漁の権利をとったこともありました。権利は、一度とれば永久に続くというものではありません。毎年、応募した物の中の何割かに当たるだけです。

伊茶仁捕獲場から少し下った伊茶仁河口部。
 そうしている時、サケ捕獲場の仕事をしてもらいたいとの話しがもち込まれました。昭和30年頃のことでした。大菅さんの家から伊茶仁のサケ捕獲場までは歩いてほんの数分の距離。捕獲場で働いている人は、必ずしも漁業経験者ばかりではありません。漁師であり、家もすぐ近くの大菅さんになら、安心して仕事を任せられると考えたのでしょう。あえて断るほどの理由もないため、その仕事を引き受けることになりました。


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