水の話
 
自然と人とが対等であった庭
現代のように庭が一般的になったのは、昭和40年代頃からの経済成長が大きく影響を与えているようです。
緑の葉や美しい花は心を落ち着かせてくれます。
しかし、木々や花が昔と同じように人々の心を和ませているとしても、時代の変遷とともに庭の雰囲気はかなり変化しているようです。

自然という言葉に込められた二つの意味
 自然保護ということが盛んに叫ばれています。しかし、ここでいう自然とは一体なにを指しているのでしょうか。そこには二通りの考え方があるようです。一つは自然とは人の手が全く加えられていない状態だという考え方です。もう一つは、人間がある程度の手を加えた状態であっても自然だという考え方で、これまでの日本の自然は、人間が手を加えることによって作り出されてきたものだという考え方です。日本の自然を表わす言葉としてよく使われてきた白砂青松というのは、人間によって作り出された景観です。海岸の松林は、ほとんどが植林されたものです。白砂というのは、人間が山で木を切ることによって流れ出した砂で形成された場合も多いのです。また、里山などの雑木林は、炭焼きや燃料としての柴を刈ることによって、維持されてきた林です。人が全く手を加えないものも、逆に人が手を加えたものも、どちらも自然であるというように、自然という言葉は使う人によって全く異なる意味になるようです。

松のある風景

日本の庭は「あるがまま」の風景の描写
 自然という言葉はもともとサンスクリット語で、それが仏教とともに中国に伝わり、「自然」という文字で表現され、日本には仏教とともに入り、「じねん」と読み、「あるがまま」「おのずから」という意味で使われていました。やがて明治になり、ネイチャーの訳語として使われ「しぜん」と読まれるようになったのです。
日本人にとって自然はやさしいもの、美しいものであり、四季の恵みをもたらしてくれるものですが、狩猟を中心として歴史を築いてきたヨーロッパでは、自然をいかにして克服するのかは、人の生存にもかかわってきます。つまり、ネイチャーとは、人間と対立する言葉なのです。それに対し、日本には欧米のような人間と対立する概念としての自然はなかったのです。あるいは、自然を意識していなかったといった方がいいのかもしれません。周りにある河や山などはあるがままの姿でしかなかったのです。そうした意味からいくと、日本には人間と対立する概念であるネイチャー(=自然)は存在していなかったのです。だからこそ、日本ではあるがままの美しい風景を描写することが庭造りの基本になったといってもいいのでしょう。
それに対し、欧米における都市や住居は人間を守る大切な場所でした。そこに人間と対立するものの存在は許されません。フランスの庭は幾何学模様を、イギリスの庭は左右対称を一つの基本としているというのは、ある意味では、庭は自然を克服した姿といってもいいのです。

木 木
自然の状態で生えている樹木は、様々な形を連想させてくれます。庭にそうした木があるだけで、深山幽谷の地が思い起こされます。庭木は直線的であるよりは、曲線を描いた軒や枝の木の方が好んで用いられるようです。そこには、白然の景観をそのまま受け入れようといった姿勢が感じられます。

池の中の水草、木の下に生えた苔、遣水の周りに生えた草、人が手を加えなくても庭は時間の流れの中で、あるがままの風景を作り出していきます。 水草 木の下の苔
苔 花 水の流れ



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