水の話
 
海と川によって異なる舟の形

陸の延長としての川
 航海の神様として全国の船乗りの信仰を集めていることで知られているのが金比羅様です。舟は陸上の交通に比べて危険が多く、安全な航行ができるかどうかは天候次第という面が強かったのでしょう。海舟には舟霊(ふなだま)信仰がありました。川の場合も、金比羅様や住吉神社が近くに設けられている川湊があります。川湊の灯台は、こうした神社に建てられた常夜灯であったものが多いようです。
ただ、川舟の場合、舟霊に対する信仰がほとんど聞かれません。新しくつくられた舟を川に降ろすとき「舟かぶり」といって川に入れたばかりの舟をわざと転覆させるという行事が行なわれていました。最近では、舟かぶりが行なわれることもほとんどなく、川に降ろした舟に塩と酒を振りかけるくらいのようです。
海舟は一度出航すれば何日も舟の中で暮らすことが多く、その間に天候が変る可能性があり、風雨によって帆が折れたり櫓が流されたりすれば、幾日も海の上を漂流するか、見知らぬ土地に流されることも考えられます。しかし、川舟の場合は普通は何日もかけて長距離を航行することはありません。天気の変化もあらかじめ予測しやすく、天候が急変しても避難できる場所がたくさんあり、水難事故に遭う可能性は海ほどには高くなかったようです。
しかし、川にも危険な箇所はたくさんあります。川幅が狭くなっているところでは、岸から岩が突き出したところもあります。また、水面のすぐ下に岩があっても、上流から見ると水面が光って見えないこともあります。そんな岩に乗り上げてしまうと舟は大破しかねません。こうした難所では岩をくだいたり取り除いて安全に航行できるようにする必要があり、川普請とか川さらえが行われました。その結果、山間部から河口部までの通船が本格的に行なえるようになるのは、むしろ明治時代前後になってからです。そうして舟運が盛んになっていきましたが、やがて鉄道の開通や道路の整備によって、物資の輸送は川から陸へと移っていきました。
舟運が盛んであった頃、岐阜県の揖斐川では上流の村から伊勢湾岸にある町まで7~8日をかけて炭や石灰を運搬する舟がありました。こうした舟には船頭が寝起できる1坪ほどのスペースが設けられ、炊事道具も積まれていました。川舟ですから水には不自由しないように思われるのですが30~40リットルの飲料水が入る水瓶や水桶も備えられていました。そして、出発する前に井戸などから汲んだ水を用意したということです。いかに目の前を流れる川の水がきれいであったとしても、数日間の川の上での暮らしには日常生活で使っている水を用意したのです。海へと船出することは、いわば日常とは異なる世界への旅でした。それに対して川は陸地の延長上にあり、川舟の使用は日常の世界の延長上に存在していたのです。
川は漁の場であり物資を運ぶ道であり農作業へ出かけるための道として、昔から人々に利用され、川舟を通して日常的にふれられてきました。ところが川と日常的に直接ふれる機会が少なくなっています。川が日常の暮らしの中でごく当り前のものとしてあるのならば、美しい川の存在は当り前で、川をきれいにしようとか、川を守れということはなかったのかもしれません。川との付き合い方も景観も時代とともに変化しています。しかし川の美しさだけは変らずにあって欲しいものです。
尾張名所図
金比羅さん
旧中山道から名古屋を経て旧東海道へと至る脇往還(わきおうかん)として美濃路が整備されたのは慶長5年(1600年)でした。途中にある木曾川左岸には起(おこし)宿が設けられ、渡し舟がありました。近代になってからは「ポンポン船」の愛称で親しまれたダルマエンジンを積んだ舟へと引き継がれてきましたが、1960年代に姿を消しました。舟着き場のすぐ横には金比羅さんが建っていましたが、いまでは河川改修などで川から離れた位置になっています。(写真上は尾張名所図会)

住吉神社 石畳 有知湊(こうづちみなと)跡の常夜灯
美濃和紙で知られる岐阜県美濃市の長良川左岸にいまも残る上有知湊(こうづちみなと)跡の常夜灯。湊から石畳の道を上ると小さな住吉神社が建っています。昔は和紙をはじめとした物資を積んだ川舟で賑わいを見せていたことでしょう。


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