水の話
 
水とともに生きる智慧

消えかけた水路
 くんばのすぐ近くの水中を4~5センチの大きさの魚が群れをなして泳いでいました。くんばの対岸には直径1メートルほどの丸太を輪切りにしたものがいくつか水に浸けられていました。この丸太は祭りの山車に使う車輪です。年に1度の祭りの時に使われる以外は、こうして水に浸けて乾燥してひび割れないようにしているのです。観光川下り舟が行き交う水路とは、またひと味違う柳川らしい掘割の風景です。
ところが、柳川の水路が埋め立てられそうになった時代がありました。昭和30年頃に上水道が整備されていくとともに水路の水は上水道としての役割を終えました。水汲みの苦労からも解放され、たくさんの水が使われるようになっていきました。電気洗濯機が普及し、食生活には油分の多い洋風のものが取り入れられ、合成洗剤の使用が当たり前になっていきます。化学肥料が普及して水路の水草を肥料にする必要もなくなりました。使った水を従来と同じように扱っていても水は汚れていきました。しかも水路の水が日々の暮らしの中で果たしてきた役割は終わっていました。
水草が繁茂しはじめると水は流れなくなり、さらに水の汚れはひどくなっていきます。やがてゴミが捨てられるようになると悪臭を放ち、ボウフラが涌くようになりました。もはや魚の姿は消え、水に入って遊ぶ子どもたちもいなくなりました。昭和36年から観光川下りがはじまりました。しかし皮肉にも水路を観光資源に使い出した頃には水が汚れはじめ、ゴミや水草で水路が埋まりだしたのです。40年代には川下りコースの水路を浚渫(しゅんせつ)しましたが、観光のためだけの浚渫では市民からの協力も理解も得られず、すぐに水路にはゴミが溜まっていきました。昭和50年代にはいると、水路を埋め立ててしまえという声が高まってきました。

清掃舟
柳川の財産である水路を守るため、今も清掃舟が水路の掃除を行っています。

清掃活動 清掃活動
市役所の職員や地域住民が、人海戦術で清掃活動を行いました。
昭和50年代の頃の水路 甦らせた水路
昭和50年代の頃の水路 甦らせた水路
ゴミとヘドロで埋まり水の流れなくなった昭和50年代の頃の水路(写真左)と、市民と行政がお互いに協力して甦らせた水路(写真右)。(写真提供:柳川市役所)

思い出を取り戻すことから始まった水路の復活
 柳川の水路はなんとしても守らなければならない、という声が上がってきました。それも最初に声を上げたのは市民の側ではなく行政の側でした。柳川の水路が生活用水としての機能しかもっていなかったならば、埋め立てられていたかもしれません。しかし、水路を埋めてしまったならば地下水涵養機能を失い、柳川の街全体が地盤沈下する恐れがありました。遊水機能も損なわれ、雨が降るたびに街のどこかで浸水が起きる可能性もありました。このとき既に市街地の総延長60キロメートルにおよぶ水路のうち、30キロメートル以上がヘドロで埋まり、水のない水路になっていました。
水路の再生といっても容易なことではありませんでした。民家と民家の間の狭い場所を流れていたり、水路の上に倉庫などがつくられたりしていたため、住民の協力を得る必要がありました。そして再生した水路に再びゴミなどが捨てられないようにしなければなりません。行政が住民懇談会で最初に行ったのは、かつて水路が美しかった頃や魚採りなどの楽しかった時の思い出を語ってもらうことでした。それから水路のもっている地下水涵養や遊水などの大切な機能を説明して回ったのです。水路の浚渫は市の職員がゴム長靴をはいて直接行いました。自分の裏庭のように思っていた水路の清掃に泥まみれになって取り組む職員の姿を見て、手伝いを買って出る人が現れます。やがて水路に水が流れるようになると、別の町内からも水路清掃をしてほしいとの要請がきます。こうして昭和53年から57年にかけて市街地の36キロメートルの水路を見事に再生させました。


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