水の話
 
水との戦いが作り出した水郷地帯
日本一大きな干潟で知られる有明海。潮の引いた広大な干潟の上にガタスキーの跡が1本、沖に向かって伸びています。その横でムツゴロウが愛嬌のある姿で泥の上を飛び跳ねています。水郷地帯として有名な柳川市一帯は、筑後川などによって造られた沖積平野です。

7メートルもの干満の差で作られた干潟
 福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県に囲まれた有明海は伊勢湾や東京湾に匹敵するほどの大きさがある内海で、総面積は1,700平方キロメートルにもおよび、水深は深いところでも20数メートルしかありません。湾口が狭く内湾が広くて浅いので干満の差も大きく、干潮時と満潮時とでは最大7メートルもの潮位の差があります。有明海へは阿蘇の外輪山に源を発する筑後川や矢部川などが注いでいます。そして毎年大量の土砂を運び込んでいます。
いまから5000年ほど前の縄文時代に地球の気候変動によって海が後退して、それまで海であったところが陸地化していきました。現在の筑後平野の原型もその頃に形成されました。しかも干満の差が激しい有明海の海水は、満潮になると筑後川を20キロメートル以上も遡ります。こうした潮の満ち引きによって有明海に堆積した土砂は海と川をいったりきたりしてどんどん粒子を細かくしながら干潟を形成していきました。
干潟にはやがて葦が茂り徐々に陸地化してきます。いまから2000年ほど前になると、干潟の陸地化した場所に人が住みはじめます。陸地といっても湿地に近い状態です。そこで低い場所を掘って排水をするとともに、掘った土を盛り上げたところに住居や田畑が作られました。柳川は縦横無尽に水路が通る水郷地帯として有名ですが、その水路の原型は、こうして2000年も前につくられたのです。

干潟
徐々に潮が満ちてくる有明海。現在の柳川市もかつてはこうした干潟でした。
ムツゴロウ
潮の引いた干潟の上を這うムツゴロウ。堤防の下へ人が歩いていき少しでも近付こうとすると、すぐに穴の中へ潜ってしまいます。

干潮時 満潮時
沖端(おきはた)川下流にある漁港も大きな干満の差を受けています。干潮時にはほとんど水がなくなり船底を土の上に出していた漁船も、満潮時になると水の上に浮かんでいます。(左・干潮時、右・満潮時)

総延長930キロメートルもの水路
 陸地となった干潟の溝は徐々に深く掘られ、お互いが繋げられて単なる溝から水路へと変貌していきました。戦国時代が終わりを告げて江戸時代になると、柳川は城下町としての発展をはじめます。民家の表側が道路で裏側が水路に面している独特の景観はこの頃に整備されたのです。
水路が整備された理由はいくつか考えられます。水運としての利用もあります。もちろん既につくられていた水路は城下町を守る堀の役目をもっています。しかしそれ以上に大切なことが良質な水の確保と大雨の時の洪水対策でした。もともとが湿地であったような場所に作られた柳川ですが、地盤沈下の危険が高いため地下水を汲み上げることはできません。
柳川市は平成17年の市町村合併によって市域が拡大しました。現在の市域における水路の総延長は930キロメートルにも及んでいます。市街地中心部の4平方キロメートルの範囲だけでも水路の延長は60キロメートルにも達し、水路面積が占める割合は12%にもなっています。また地区によっては水路面積が30%にもなっているところあります。

水門 堤防
大雨の時に下流の土地が一気に浸水しないように、干拓地の水路の水門で水を食い止めます。 石垣で作られた堤防の上も、ところどころに畑がつくられていました。

メニュー|1 2 3 4 5 6次のページ