水の話
 
清流によって育まれた町や村
人々の暮らしとは切っても切れない深いつながりを持った四万十川。日本最後の清流と呼ばれるようになり、多くの人が訪れるようになりました。しかしここで暮らす人々にとって、清流という意識はありませんでした。美しい流れが当たり前であったのです。それでも時代の変化は否応なく押し寄せてきます。清流を守るという意識を持たなければ、四万十川でさえ汚れてしまう可能性があるのです。

穏やかさの中に見せるもう一つの表情
四国 川幅いっぱいに茶色く濁った水が流れています。普段なら見えるはずの河原は見えません。橋を渡ると茶色の川は四万十川に合流しました。これまで走っていたのは四万十川の支流沿いの道でした。本流もかなり増水していますが、支流ほどの濁りはありません。
四万十川の流れには常に穏やかなイメージが付きまといますが、実は暴れ川という側面も持っているのです。四万十市・西土佐地区(旧・西土佐村)は中流域に当たります。この辺りで川幅は約200m、水の流れがある部分は100mほどです。場所によっては水深が3~4mの所もありますが、浅瀬を上手に利用すれば対岸まで徒歩で渡れないことはないそうです。下流からこの辺りまでは石ころの河原もあり、流れも穏やかです。四万十川のカヌーも、ここから下流域で楽しまれています。
ところで四万十川流域で堤防があるのは四万十市(旧・中村市)の市街地とその周辺だけです。四万十川は基本的にV字形になった地形の底を水が流れています。増水時に水に浸からないと思われる高さで川と平行して国道がつくられています。水面から国道までの高さは約10m。国道とはいっても乗用車がなんとかすれ違うことができる程度の幅しかない所もあります。山を切り崩さない限り、ここには堤防をつくるスペースがないのです。
普段は穏やかな表情を見せている四万十川ですが、ひとたび大雨が降ると増水によって国道が水を被ることがしばしばあります。平成17年の大雨のときは国道が冠水しただけでなく、国道沿いの家の1階天井付近まで浸水しました。このときは、川の水位は普段に比べ13~14mは上がったといいます。自然は決して優しく穏やかなだけではないのです。

合流点近く
右岸(写真左側)から流れ込んでいる川は四万十川に合流する広見川。合流点近くの町は旧・西土佐村の中心地です。


自然の驚異には寛容な人々
 四万十市の人たちは自然に対して寛容です。四万十市・西土佐地区の川沿いにある家の多くは2階建てです。大水になったときは1階にある家財道具などを2階へ運び上げます。これを「荷揚げ」と呼んでいます。かつて国道沿いには堤防の代わりにコンクリート壁がつくられていました。しかし、コンクリート壁によって隔てられてしまった四万十川は四万十川としての価値がないということで、いまではコンクリート壁を作るのは止めています。土佐の人たちは自然の脅威を力でねじ伏せるのではなく、あるがままを受け入れているのです。沈下橋が数多く残されていることもその証拠なのではないでしょうか。
四万十川の大水は一気に増水し、一気に水が引くため、長時間水に浸かることはありません。水に浸かっている時間は長くても3~4時間です。かつて旧・西土佐村は養蚕(ようさん)が盛んでした。農作物を作るスペースは河原くらいしかありません。しかし、大水の時にはせっかくの作物が流されてしまいます。そこで桑の木を植えて蚕を飼ったのです。桑の木は根がしっかりと張るので水に流されることがありません。根が張れば土も流れ去ることがなく農地を守ることができました。
一斗俵(いっとひょう)沈下橋
昭和10年に架けられた一斗俵(いっとひょう)沈下橋(四万十町・旧窪川村)は四万十川流域に現存する沈下橋としては一番古いものです。

中半家(なかはげ)沈下橋
手前の中半家(なかはげ)沈下橋の向こうに見えるのは半家(はげ)大橋。沈下橋が低い位置にかけられていることがよくわかります。


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