水の話
 
海苔の育つ海
海面に無数のノリヒビが規則正しく並んでいます。海面は波もなく穏やかです。海苔養殖が行われている海は内湾で河口に近いところが多いようです。河川と海苔にはどのような関係があるのでしょうか。

神話の世界からあった海苔
 日本人はいつ頃から海苔を食べていたのでしょうか。古くは日本武尊(やまとたけるのみこと)が海苔に関する歌を詠んだともいわれています。どこまでが事実なのか確かではありませんが海苔は昔から日本人に食べられていたようです。
西暦701年につくられた大宝律令に、租税として朝廷へ納める品物のひとつとして海苔も挙げられています。ただし当時の海苔は海岸の岩や流木などに自然に付着したものを採取するだけでした。当然、わずかな量しか採れず貴重品でした。採取した海苔も現在のような板状の乾海苔(ほしのり)に加工するのではなく、そのままの状態か、もしくは広げて乾かしただけで食べられていました。
ところが古くから食べられていた割には海苔養殖の歴史は比較的新しく江戸時代に入ってからです。徳川家康が海苔好きであったため、品川・大森のあたりで海苔養殖が行われたのが始まりだとされています。養殖とはいっても海苔が生えそうな場所に木の枝を立てて自然に付着した海苔を採取するだけです。それでも生産量は大きく伸びました。この養殖方法はその後昭和の時代まで長く続きました。
江戸時代の中頃になると海苔を細かく刻んで紙漉(かみす)きのようにしてつくられる乾海苔が登場し、海苔巻きなどに使われました。それまではごく一部の上流階級の人しか食べられなかった海苔が、ようやく一般庶民でも食べることができるようになりました。とはいってもあくまでも高級品であることに変わりはありませんでした。
海苔網
水面から出た海苔は小さく固まっていますが、水の中に入ると大きく広がり海苔網全体が黒く見えます。

海苔


収穫量は運次第
海苔 海苔養殖のアイデアは将軍の食事に供する魚をソダとよばれる木や竹で囲った生簀(いけす)の中で飼っていたところ、ソダに海苔が付着したのを見て考え付いたといわれています。海苔養殖に使うソダをノリヒビ(ヒビ)とよびます。海苔の収穫量を決めるのはノリヒビに自然についたタネ(胞子)の量によって変わります。タネがたくさん付くかどうかは、海のどのあたりにノリヒビを立てればいいのかという勘と経験の世界で、さらにその年の天候によっても収穫量は左右されました。収穫量が多いか少ないのかは自然に任せるほかありません。年によって収穫量に大きな開きが出れば、それにあわせて商品価格は変化します。海苔は長年相場商品であったのです。こうしたことから海苔は運草(うんぐさ)ともいわれていました。
海苔のタネがいつ頃、どのような場所でつくられてノリヒビに付くのかといった海苔の生活史は長年の間不明でした。そのことが解明されたのは昭和20年代になってからです。

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