水の話
 
海から山へ続く塩の道
長野県の塩尻市をはじめ、塩竈(しおがま)市、塩原町、塩沢町、塩江町、塩田町といった市町村名から、塩付、鹿塩、塩津といった地域、あるいは八塩川、塩野川など、日本には塩の付く地名が各地にあります。
その多くが塩をつくるために海水を煮る竃(かま)があったり、岩塩が産出したり、あるいは塩の運搬などに関係していたことを伺わせます。塩の道と呼ばれるものも、日本中に張り巡らされています。

いまも残る塩に関係する地名
 新潟県の日本海側に注ぐ姫川の河口に位置する糸魚川市。ここから長野県塩尻市方面へ、北アルプス沿いに千国(ちくに)街道と呼ばれる道が延びています。かつて、この道を経て、山国に塩が運ばれていたため、別名を「塩の道」と呼ばれ、街道の一部は人気の観光コースにもなっています。そして塩尻市は、塩が最終的に到達する地からきた地名であるともいわれています。しかし、塩尻市近辺へは、日本海側からのみ塩が運ばれていたわけではありません。太平洋側からも塩は運ばれました。信州へは北から南からの何本もの「塩の道」がありました。
住宅とビルが建ち並び、その間を高速道路が貫いています。高速道路下の国道にはたくさんのトラックが走っています。名古屋市南区は工場地帯ですが、ここの地名には浜田町、堤町、浜中町、荒浜町、大磯通、荒崎町、汐田町といった、海に関係がありそうな地名が残されています。さらに元塩町、塩屋町、千竃(ちがま)通といった地名も見られます。しかし、この辺りがかつて海であった形跡は全く見当たりません。江戸時代頃から干拓が行われ、いまでは海から遠く隔てられているからです。
千竃とは塩を煮詰める竃がたくさんあったという意味です。塩屋とはその作業を行う小屋という意味です。この辺りから北へ向かう道がありました。その道をたどっていくと、塩付通という名の道が残されています。さらに北へ向かうと、いまも飯田街道の名で呼ばれている道と交差しています。いずれの道も、かつて信州方面へ塩を運んでいた道です。
尾張名所圖會
いまでは工場が立ち並ぶ名古屋市南部も、かつては製塩地帯でした。
(尾張名所圖會より)

海辺の吉良町から山の町へと続く道
 かつては、名古屋市南部の海岸だけでなく、名古屋の南に位置する知多半島や愛知県の三河湾に面した吉良町、一色町でも塩がつくられていました。吉良町は赤穂浪士の話で有名な吉良上野介の領地で「饗庭(あいば)塩」の名で呼ばれる良質な塩が生産されていました。ここでは昭和47年まで塩がつくられていました。吉良町でつくられた塩も各地へ運ばれました。舟に積み込まれた塩は三河湾に注ぐ矢作川を遡り、徳川家康生誕の地として有名な愛知県の岡崎へ運ばれ、一部の塩が下ろされました。岡崎は八丁味噌の生産でも全国的に知られています。味噌づくりに塩は欠かせません。味噌づくりなどに必要な量を下ろした塩は、さらに支流の巴川を進み、九久平(くぎゅうだいら)という川湊で荷下ろしされ馬の背に積み替えられました。この近辺の道は「吉良街道」「足助(あすけ)街道」「岡崎街道」など塩が運ばれた道がさまざまな名前で呼ばれています。一般に、街道の名称は目的地の名前をそのままかぶせて使われることがよくあります。例えば名古屋・岡崎間の街道は、名古屋からは「岡崎街道」、岡崎からは「名古屋街道」といった具合に呼ばれます。同じ名前の道であっても、地域によって別の道を指す場合もあります。その逆に、同じ一本の道であったとしても、区域ごとにいくつもの名前に別れて呼ばれる道もありました。
全国に、塩の道と呼ばれる道がたくさん残されています。いずれの道もその地域では、別の名前をもっています。塩が運ばれた道ということから名付けられたのですが、決して塩だけが運ばれた訳ではありません。ただ、塩の道の共通点は、海から山へと続く道がほとんどだということです。
吉良町歴史民俗資料館の復元塩田
吉良町歴史民俗資料館の復元塩田
忠臣蔵で知られる吉良上野介の領地・吉良は、良質な塩の産地としても有名でした。吉良町歴史民俗資料館では塩田を復元し、一般公開しています。

岡崎城近くの川 味噌蔵
三河で作られた塩は川舟で内陸部へも運ばれました。徳川家康生誕の地・岡崎城の近くには塩を降ろした川湊がありました。有名な八丁味噌をつくるときも三河から運ばれた塩が使われました。右は今も使われている味噌蔵の並びです。

塩田風景
昭和30年代までは、こうした塩田風景が日本の各地で見られました。
(写真提供:吉良町教育委員会)


メニュー|1 2 3 4 5 6次のページ