水の話
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水によって復興した都
平安京がつくられて以来、1000年の栄華を誇ってきた京都。ところが明治維新による東京遷都で、京都は急激に衰退していきました。街を復興させるには産業を振興させなければなりません。その決め手となったのが琵琶湖の水でした。そして疏水計画が立てられ、実行されました。

クリーンエネルギーとしての水車計画
 明治維新によって京都は様変わりします。危機感を抱いたのが京都府知事に就任をした北垣國道(くにみち)でした。彼は琵琶湖の水を京都へ引いて産業を復興しようと考えました。そして水利用による7つの目的があげられました。
1番目が機械を動かすための動力源の確保でした。このときすでに、桂川の水車を動力源とした製紙会社がつくられていましたが、水量などの関係で大きな動力は得られませんでした。工業を振興させるには、より大きく、安定した動力が必要です。水車を動力にするには、豊富な水が常に流れていることが重要です。琵琶湖から京都まで水路を通せば年間を通して理想的な動力を得られると考えたのです。
この時代、西欧では機械の動力として蒸気機械が使われていました。ところが京都は疏水による水車にこだわっています。理由として蒸気機械は石炭を燃やすためにその費用が莫大になることや機械が複雑になることがあげられています。さらに石炭を燃やすことによって煙突から排出される煙で「英国ロンドンの煙霧の害をみるまでもなく衛生の上から大きな害があることはいうでもない」(起工趣意書)としています。いまから100年以上も前にクリーンエネルギーの考えがあったのです。
疏水建設の2つ目の目的が琵琶湖と京都を結ぶ舟運でした。
3つ目は田畑の灌漑です。京都市には桂川や鴨川が流れています。しかし鴨川は水量が少ない上、夏の間の3カ月は田畑への灌漑のため、水量が極端に減りました。桂川にはかなりの水量がありましたが、市街地から離れている上、夏の間はやはり水量が減少しました。そこで灌漑用の水路を引くことによって干ばつの害が減り、収穫量は2倍以上になると予測しています。
水車を使った精米も重要な目的になっています。当時は京都で消費する米の半分は他所で精米をしたものを輸入していましたが、それを疏水の水車を使えば、京都の経済効果は高くなるとしています。
京都は過去にしばしば大火に見舞われてきました。消火に使える河川が少ないことも大火になった理由としています。疏水をつくれば市街に防火用水の整備ができます。
また京都では昔から地下水に飲料水を頼ってきましたが数十日も晴天が続くと、すぐに地下水に影響が出て井戸が涸れてしまいます。疏水によってそうした水不足を解消することも考えられました。
そして7番目として衛生上の観点があげられています。京都は河川の少ない街です。排水溝の水を流し去ることができず、腐敗した水が溜り、悪臭を発することもありました。そのまま放置をすると伝染病が発生する恐れもありました。疏水を使い、排水溝にいつもきれいな水を流すようにすることによって衛生面で街の整備ができるというのです。
琵琶湖疏水の工事が始まったのは明治18年(1885年)、そして5年後の明治23年(1890年)に鴨川までの11.1kmと、8.4kmの疏水分線が完成しました。その後も疏水建設は続きました。明治25年(1892年)には鴨川から先の濠川(ほりかわ)をへて宇治川へと至る工事が行なわれ、明治27年(1894年)に完成します。この間は別名を鴨川運河(8.9km)とも呼んでいます。


琵琶湖と京都の間は山で隔てられています 地図
巨大な水瓶である琵琶湖と京都の間は山で隔てられています。そのため、琵琶湖の水を直接利用することはできませんでしたが、明治になると山科の山を越えて京都へと琵琶湖疏水がつくられたおかげで様々な形で利用できるようになりました。


大津港 取水口
長等山に掘られたトンネル
琵琶湖疏水は大津港から取水されます。上の写真は正面が琵琶湖で取水口から見た琵琶湖で、右の写真が取水口です。第1疏水は1kmほど流れた後、長等山に掘られたトンネルをくぐります。


疏水がつくる美しい景観
 明治時代に日本で行なわれた大土木事業の多くは西洋から呼び寄せた技術者が指導に当たっています。ところが琵琶湖疏水は日本人だけの手で行なわれました。当時の日本では近代的な土木工事技術はありませんでした。そうした中で一番の難工事が予想されたのは長等山の山麓をくりぬいてつくられた第1トンネルでした。長さは2,436mもあり、当時の日本では最も長いトンネルでした。
トンネルの掘削は両側から行なわれました。さらにトンネル内の換気と掘った土砂を排出することを目的に、深さ47mの竪坑(シャフト)が2本掘られました。こうした工法の採用も日本では初めてのことでした。
第1トンネルを抜けた疏水は再び諸羽トンネルをくぐります。このトンネルは長さ520m、つくられたのは昭和45年(1970年)で、国鉄(現JR)湖西線の工事の時です。トンネルを抜けると南側に山科(やましな)盆地が広がります。疏水は盆地の縁の高台になっているところを流れています。秋には紅葉が疏水の水面を美しく彩ります。途中で小さな川を横切ります。安祥寺川(あんしょうじがわ)です。疏水が川の上をまたいでいます。疏水の上には橋も見られます。舟が通り易いように、橋が水面よりもできるだけ高い位置となるように架かっています。そのため橋のたもとの歩道部分には階段が付けてあります。疏水の水路の横には舟引き道があります。舟が流れに逆らって上流へ向かう時、ロープを付けて人力で引くことができるようにするための道でした。トンネルの中には舟引き道がないので、壁に張ったロープをたぐり寄せて舟を動かしやすくしていました。

立体交差
第1トンネルを抜けて京都市山科区に来た琵琶湖疏水は、安祥寺川の上を立体交差して流れます。
日本で最初につくられた鉄筋コンクリート製の橋
第3トンネルの入り口手前に架かっている橋は日本で最初につくられた鉄筋コンクリート製の橋です。

旧九条山浄水場のポンプ室。
琵琶湖の大津港で取水された琵琶湖疏水のうち、第2疏水はそのままトンネルに入り、蹴上で第1疏水と合流します。赤煉瓦の建物は旧九条山浄水場のポンプ室。
ケーブルカー
ケーブルカー
蹴上のところで疏水の流れは九条山の斜面を下るために落差が大きくなり、そのまま舟を通すことはできません。そこで水は暗渠の中を通し、舟は山の斜面をケーブルカーに乗せて運びました。
ねじりまんぽ
インクラインの下はトンネルが掘られ、くぐり抜けられるようになっています。トンネル内部の煉瓦をみると、ねじれたように積み上げてあります。そのため「ねじりまんぽ」と呼ばれています。


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