命の宝庫、琵琶湖ヨシ群落

水の話 No.170 特集 時代と海を越える上総掘り 日本の伝統技術で開発途上国にきれいな水を

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上総(かずさ)の地で生まれ、広がった、深井戸掘り技術。

自噴井が点在する名水のまち

 千葉県君津市を歩いていると、現代には珍しくまちの所々に井戸を見かけます。これらの井戸の多くは、この地で誕生した『上総掘り』という井戸掘り技術によって掘られた自噴井です。上総とは、房総半島の古い地名で、現在の君津市や袖ケ浦市などの君津地域を指しますが、この地域は昔から上総掘りによって豊かな水に恵まれており、中でも久留里地域には今でも約200本の上総掘りの井戸があると言われています。

 清澄・三石山系の山林に降った雨が天然の地層を通ることでろ過され、さらに地下水脈を通って湧き出てくる久留里の井戸水は、「平成の名水百選」に選定され、水質やその美味しさから「生きた水・久留里」と呼ばれる、まさに名水。地下400~600メートルからきれいな自然水が1年中こんこんと湧き出ています。さらに毎年地元の観光協会によって水質検査が行われ、安心安全な水であることが証明され、定期的な保全もされていることから、遠方からわざわざ足を運び、道のほとりで水を汲む人の姿も珍しくありません。

水の安定確保を求め、井戸技術が発展

 こうした水環境をつくり出した上総掘りは、君津市の小糸 川・小櫃川に沿う地域が発祥と言われていますが、いくつか の地域的要因があります。まずはこの地域の地層が砂利の 少ない掘りやすい細粒の地層であったこと、自噴する被圧 地下水が豊富だったことがあげられます。一方で、小糸川・ 小櫃川の慢性的な水不足や、耕地が川よりも高いところに あったために川の水を利用することが難しく、農民にとって は灌漑用水として、飲料水として、水の安定した確保は切実 な願いだったのです。江戸時代までの井戸掘りは人力で堅 穴を掘る『掘り井戸』、そこから地中に鉄棒を突き入れる『鉄 棒式(突抜工法、掘抜工法)』が普及しており、人手と危険が 伴うだけでなくその深さも30メートル程度が限度で十分な 農業用水が確保できませんでした。しかも工事には高額な 資金が必要なため、特定の裕福な商人だけしか掘ることが できず一般には普及していなかったそうです。そこでさまざ まな職人が徐々に改良を加え、身近な素材と人力だけで掘 削を可能にしたのが上総掘りでした。

1, 2:久留里駅周辺には、久留里観光交流センター前の水汲み広場をはじめ、徒歩圏内に一般に開放された井戸が点在しています。
3:上総高校近くの春日神社前にある『上総掘発祥地碑』。上総掘り発祥を後世に伝えようと小糸町教育委員会が1962年8月に建立しました。

少ない人力で掘削を可能にした『上総掘り』

 上総掘りは、小櫃地域の大村安之助、小糸地域の池田久吉、池田徳蔵らが中心となって技術の改良に努め、誕生したと言われています。1882年頃に樫の棒を用いた樫棒式を考案すると、5~6人で100メートル程まで掘削できるように。さらに竹ヒゴと掘り鉄管、スイコを組み合わせた技術を考案すると一挙に掘削能力が向上し、わずか3~4人まで作業人員を減らし、人力のみで500メートルを超える掘削ができるようになりました。その後も職人たちのたび重なる改良の結果、1886年頃に上総掘りの技術体系が完成したと言われています。

 上総掘りの工法を簡単に説明すると、まず足場の櫓を組み、上部にハネギを取り付けます。竹ヒゴの先に取り付けられた重量約30キログラムの鉄管を、ハネギの弾力を利用して上下させながら地底に打ちつけることで地層を砕いて穴を掘り進めます。鉄管の長さを超えて掘り進めていくには、鉄管の上方に一本が7~8メートルの竹ヒゴを継ぎ足していきます。直径4メートルほどのヒゴ車の中には人が入り、足で踏み回すこと

 上総掘りによる井戸掘りの労力軽減化が、君津地域の自噴井の急速な広まりを助け、稲の増産に飛躍的な効果を発揮しました。丈夫な孟宗竹が容易に入手できる地域であり、漁業が発達していたことから桶職などの職人も多かったため、竹をヒゴに加工する技術が桶職人から井戸職人へ伝わったとも言われています。上総掘りの技術は、一人がつくり出したものではなく、多くの職人たちが実践しながら試行錯誤し、その技術革新と伝承の繰り返しによって普及していった知恵の結晶なのです。

上総掘りの技術は、上総から全国、そして世界へ

 身近な素材を巧みに利用し、細部にわたる数々の工夫によって経済的に優れた高度な技術体系を実現した上総掘りの技術は、明治後期から大正時代にかけて日本各地に伝播し、生活用水、灌漑用水用に深井戸の掘削技術の主流として応用されていきました。さらに井戸掘りだけに留まらず、油田掘りや温泉の掘削、石炭の地下埋蔵量調査にも活躍したと言われています。さらに1902年には、上総掘りについてまとめた著書『KAZUSA SYSTEM』がインドで発刊されています。これは、著者であるF・J・ノーマンが、1888年に来日し千葉県の学校で英語教師を勤める中で「上総掘り」に出会い、インドの水不足解消に貢献できる技術としてまとめたものです。今から100年以上前から、すでに「上総掘り」の名は世界に伝わっていたのです。

 しかしこうして人々の暮らしを潤し、遠く海外にまで広がった上総掘りの技術は、1960年代以降のボーリング技術の発達など機械化という時代の変遷によって、次第にその役目を終えていきました。その高い技術の功績は認められ、1960年に上総掘りの用具が国の重要有形民俗文化財に、2006年には技術が重要無形民俗文化財の指定を受けています。

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