雨水や汚水の行く先

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下水道と浄化槽の持つ役割の違い

日本の年間降水量の平均は1700mm前後です。ところが最近はわずか1時間で100mmを越える雨量が各地で観測されています。下水道は生活排水を処理するだけではなく、集中豪雨などによる都市災害から街を守るためにも重要な役割をもっています。

日本で最初の下水処理は1922年から

 日本の近代下水道は、もともとはし尿以外の生活雑排水と雨水を排除することが目的でつくられていました。そのため、汚水は処理されることなく川へ放流されていました。これでは汚水を単に移動させているだけです。
 明治時代の後期頃から大都市を中心に徐々に下水道がつくられていきましたが、未処理の汚水が放流されることで大都市の河川の汚れが目立ちはじめました。そこで日本最初の下水処理場として大正11年(1922年)につくられたのが東京都荒川区の三河島処理場です。処理方式は砕石を濾材として、その上から下水を散水する散水濾床法でした。ただ、この方式では汚水はそれほど浄化されませんでした。

名古屋市のほぼ中央部にある堀留水処理センターは日本で最初に活性汚泥法を採用した下水処理場です。

商品として扱われていたし尿

 三河島処理場が完成した当初は、処理される下水は雨水と生活雑排水だけでした。その数カ月後、50倍に薄めたし尿を下水道へ放流する試験がおこなわれました。
 し尿は大切な肥料として農家が買い取るなどしていたため、都市住民にとって収入の一部にもなっていました。そのため、し尿を汚水として下水で処理することになると、わずかといえども住民の収入を市町村が取り上げることになってしまいます。その一方、汚物掃除法では糞尿を汚物として定義していました。適切に処理をしないと、伝染病の発生原因になりかねなかったからです。
 大正時代になると化学肥料(硫酸アンモニウム)の普及と人口の増加によって、肥料としてのし尿の価値が低下して、金銭を支払ってし尿を買い取る農家が少なくなってきます。やがてし尿の収集を専門におこなう業者や農家が、それまでとは逆にし尿の汲み取り料金を市民から受け取るようになっていきます。一方、明治33年(1900年)に施行された汚物掃除法では市町村にし尿の処理義務はなかったのですが、衛生上の観点から次第に放置しておくことはできなくなっていきました。東京では市内各所にし尿投棄所がつくられました。さらに海洋投棄をおこなう自治体も出てきました。また許可を得た場合に限りし尿の下水道への放流がおこなわれるようになります。
 散水濾床方式よりも優れた浄化機能をもつ下水処理方法が模索されました。やがて、欧米で考案されたという活性汚泥法が日本に紹介されると、名古屋市、大阪市、東京都が実験をおこない、散水濾床方式に比べ優れた浄化能力のあることが分かり、各地で下水処理場建設がはじまりました。
 日本で最初の活性汚泥法による下水処理場が昭和5年(1930年)に名古屋市に完成しました。その後も、大阪や東京で活性汚泥法による下水処理場がつくられていきました。
 活性汚泥というのは微生物によってつくられたフロック(固まり)のことです。水の汚れとなるのは有機物で、その中には有機物を分解する微生物がいます。そこで汚水の中へ空気を送り込み微生物を活性化させ、有機物を盛んに分解させます。しかも汚泥は、微生物では分解できない物質も取り込みます。活性汚泥を沈降させ、きれいになった上澄み液を放流するというシステムです。

堀留水処理センターで処理された水は新堀川の水源となっています。

姿を消していった小川

 歩道の脇などで見かけるU字溝に、普段は水が流れていることはありません。水が流れるのは雨の降った時くらいです。このU字溝はどこへつながっているのでしょうか。また歩道と車道の境となっているところに、格子状の金属の蓋が被せられているところがあります。雨が降った時、道路を流れる雨水がここへ流れ込んでいます。これらは基本的に雨水の排水を目的につくられています。
 日本では都市部から雨水を排除するために下水道が使われてきました。昭和30年代、40年代に住宅地として開発された地域では小川の流れているところがたくさんありました。ところがいまでは小川を見ることはあまりありません。住宅地の開発と共に下水道が整備され、かつての小川は管渠化され、下水道の一部となってしまったのです。

かつて小川であった場所も、いまでは車道や歩道となっているところがたくさんあります。

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