水の話
 
激しい潮流が育てた水軍の郷
小さな漁船のエンジンが唸ります。しかし船は一向に前へ進もうとはしません。漁船がエンジンを停止しました。潮鳴りの音があたかも川の早瀬の中にいるよう錯覚を起こさせます。そして船は川を下るように勢い良く流されはじめます。大島と伯方島に挟まれた狭い瀬戸に海賊島と呼ばれる小さな島があります。

重要な海上交通路
 港を出て海上を300mほど進むと、漁船は周囲200~300mほどの小さな無人島の横に到着します。島の小さな突端にはお地蔵様が祀られ、その横に洞窟があります。このお地蔵様は海で亡くなった人の霊を慰めるために建てられたものですが、いつ頃からか「鯨地蔵」と呼ばれています。その昔、この海域にクジラの親子が遊びにきました。ところが潮の流れがあまりにも速くなったので洞窟の中で休んでいたところ、今度は潮が引いて帰ることができなくなってしまいました。困っているクジラを見かねたお地蔵さんがたくさんの魚たちを呼び集め、クジラの親子を海へ戻してやりました。それ以来、年に一度、クジラがお地蔵様のところへお礼にくるようになったという昔話があります。いかに豊穣の海とはいえ、ここにクジラが来ることなどないと思われていたのですが、平成13年に、本当にお地蔵様の前にクジラが現れてニュースになったことがありました。
クジラでさえ休まなければならないほどの速い潮の流れができるというこの場所は宮窪瀬戸と呼ばれています。お地蔵様が祀られている小さな島の名前は鯛崎島。この島から10数m離れたところには周囲800mほどの能島(のしま)という島があります。この島こそが南北朝時代から戦国時代末期にかけてその名を轟かせた海賊衆、村上水軍の拠点の一つがあったところです。

軍船の模型
村上水軍が使っていた軍船の模型。奥から安宅(あたけ)船、関船、小早船。

潮流体験
激しい潮流の向こうに見えるお地蔵様のある島が鯛崎島でその奥の島が能島。この海域では潮流体験が楽しめます。


国の文化財として唯一指定されている海の城
 荒縄で衣服を括(くく)り、巧みに船を操り相手の船に飛び乗っては略奪を繰り返す荒々しい海の男たち。海賊という言葉からはそんな姿が連想されます。大島のすぐ沖に浮かび、激しい潮流に囲まれた能島はそんな海賊たちの根城に似つかわしい雰囲気を漂わせています。昔話の桃太郎に出てくる鬼ケ島もこのような島であったのかも知れません。
能島には城が築かれていました。それも島全体が一つの要塞となるようにつくられていました。陸上にある城との違いは土塁(どるい)や堀がないことくらいです。こうした城は海城と呼ばれています。能島に城が築かれたのは1419年(応永26年)と伝えられています。
海城が築かれている島を囲む海と激しい潮流は堀や土塁の代わりとも言われています。瀬戸内海にはこうした海城跡がたくさんありますが、国の文化財として指定されている海城は能島城跡だけです。海城の歴史は意外と古く、日本最古の海城は大島の北に位置する大三島の甘崎城で海上の要塞として築城されたのは671年(白雉3年)とも言われています。一方、能島にいた海賊は海の盗賊ということを意味しているのではありません。海を舞台として活躍した武士集団とも言うべきでしょう。
島や海辺で暮らす人たちは海から魚介類や海藻、塩などの糧を得ていました。潮の流れや海底の状態などは自然と身に付きます。ただ瀬戸内海で暮らす人々にとっては彼等が身に付けた海の知識が漁労以外のことで役立つことになってきます。瀬戸内海は古くから物資を輸送するための重要な「道」として使われていました。しかし瀬戸内海は潮流の変化が激しく、難破する船も絶えず、誰もが気軽に利用できる「道」ではありませんでした。それでも危険な潮流をうまく利用をすれば目的地までより早く運んでくれる流れとなります。そのためには海を熟知していなければなりません。干潮時に顔を出している岩礁も満潮になると水面下に隠れてしまう場所がたくさんあります。激しい潮の流れのため岩礁にぶつかれば船は一瞬にして砕けてしまいます。伯方島と鵜島の間は船折瀬戸と呼ばれ、いまも恐れられています。
難破した船からの漂着物は思わぬ「贈り物」をもたらしてくれることもあったでしょう。やがて難破船からの贈り物を待つだけではなく、瀬戸内海を航行する船を積極的に襲い、略奪を働くものも出現します。身を隠す島影の場所や潮流の動きを熟知し、船を操ることができる人々にとって瀬戸内海は海賊行為を働くには格好の海でもあったのです。
村上水軍博物館
大島の村上水軍博物館。

村上武吉の陣羽織
海の大名と呼ばれた村上武吉の陣羽織。

海城が築かれた能島
石垣の見える左の島が村上水軍の海城が築かれた能島。右の島が鯛崎島。二つの島には橋が架けられていたという話もあります。


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